※この文章は、ChatGPTが考えました。
この問いに、科学が社会のさまざまな場所で使われていることを挙げて答えても、十分ではない。科学が社会に役立っていることと、私が自分の時間を費やして科学を学ぶべきことは、別の問題だからである。知りたいのは、科学の成果がどれほど偉大かではない。それを学ぶことで、私自身に何が起こるのかということだ。
覚えた公式も、試験のために理解した理論も、その後の生活でほとんど使わないかもしれない。それなら、学習に費やした時間は、ほかのことに使った方がよかったのではないか。この疑問は、科学を軽視する態度として簡単に片付けられるものではない。
科学教育は、自由を奪う営みなのか
しかも、科学を身に付ければ万能になれるわけではない。現象を説明できても、その現象を思いどおりに変えられるとは限らない。何が起こっているのか分かっていても、どうにもできないことはある。科学を学ぶことは、できることを知る以上に、できないことを知る経験にさえなりうる。
そのために、私たちは多くの時間を差し出す。とりわけ、さまざまなことを吸収し、自分の可能性を試したい若い時期に、机に向かい、記号を読み、決められた手順を繰り返すことを求められる。現実に何かを作り、働きかけたいという欲望は、まず理論を学べという要求によって延期される。
大半は使わないかもしれず、身に付けてもできないことは多い。それでも、貴重な時間を机上の空論に拘束される。こう捉えるなら、科学教育は自由を広げるどころか、自由を奪う営みにも見える。
知識を得ることと、術者になること
ところが、この拘束を、知識を得るために仕方なく支払う代償ではなく、力を獲得するために通過しなければならない儀礼として捉えたら、どうだろうか。
ここで区別したいのは、科学の理論と、科学教育の結果として人に生じる変化である。
理論は、世界が「なぜそうなっているのか」「どのように働きかければ、何が起こるのか」を説明する方便である。その説明が正しいことと、その説明を受け取った人間が現実を変える力を持つことは、同じではない。正しい説明が書かれた本を所有したからといって、そこに書かれたことを実現できる者になるわけではない。
呪文の記された書物を手に入れることと、術者になることの違いになぞらえてもよい。書物には力の働き方が記されている。しかし、書物を読んだというだけでは、その力を行使する者にはなれない。入門し、課題を与えられ、試練をくぐり、ある段階を突破する。その過程を経て初めて、以前とは異なる力を持つ者になる。
私は、科学教育にも、このような呪術的構造を見る。
科学を学ぶことは、単に世界についての説明を増やすことではない。説明を与えられるだけだった者が、現実に働きかける力を持つ者へ移行する。そのためのイニシエーションなのである。理論の学習は、その儀礼の外側に添えられた解説ではなく、儀礼そのものを構成している。
学位と成績は「儀礼の突破度」を示す
この見方に立てば、現実変容能力を決めるものは、どの理論を何回使ったかではない。学習という通過儀礼を、どこまで突破したかである。
その突破度を具体的な形で示すものとして、成績や学位がある。試験に合格すること、ある課程を修めること、学位を授与されることは、この観点からは、単なる知識量の報告ではない。それぞれの段階を通過した者として、位置を与えられることである。成績は突破の程度を数値にし、学位は通過の達成を名として与える。
ただし、ここでいう儀礼は、学校制度の内部だけに限られない。学位を持つことだけが力の源泉だという話ではない。より広く捉えれば、自分に課題を課し、理解できないものに向き合い、学習の過程を積み重ねていくことも、その通過に含まれる。
学位や成績は、そうした過程を制度が可視化した印であり、問題の中心にあるのは、学習という過程をどれだけ経てきたかなのである。
理論は説明し、教育は人間を変える
これは、「結局、知識は応用できるようになって初めて役に立つ」という話とは異なる。その説明では、依然として理論が主役であり、人間はそれを適切に使用する者にすぎない。ここで主役にしたいのは、儀礼を通じて変容する人間の方である。何を知識として所有しているかではなく、学ぶ過程を経て、どのような力を持つ者になったかを問いたい。
もちろん、現実に働きかける際には、その場面に適用できる科学理論に沿った方法を用いることになる。儀礼を通過したからといって、自然法則を無視できるわけではない。しかし、行使される力が理論に沿っていることと、その力を獲得する過程が理論の説明だけで尽くされることは、別である。
理論は、その働きかけがなぜ成立するのかを説明する。一方、教育は、その働きかけをなしうる者を生み出す。 前者の正しさを語るだけでは、後者の変容を捉えたことにはならない。
科学教育の呪術とは、変容の約束である
こう考えると、学習のために時間を拘束されることも、別の意味を帯びてくる。学習者は、あとで取り出して使う情報を蓄えるためだけに、その時間を過ごしているのではない。以前には持っていなかった力を持つ者になるために、その過程をくぐっている。
そこで覚えた一つ一つの理論に、後年、使い道が見つからなかったとしても、それだけで儀礼を通過した意味が失われるわけではない。
科学教育の呪術的な側面とは、科学理論が迷信だということではない。合理的な説明を学ぶ営みが、同時に、「この過程を通過することで、あなたは力を持つ者になる」という約束を帯びていることである。教育の価値は、説明の内容だけではなく、この変容の約束にかかっている。
教養とは、学習がその人の力として残ること
そして、その変容の結果として得られるものを、私は自由と呼びたい。
自由とは、何にも縛られず、何でも思いどおりになることではない。以前にはただ受け入れるしかなかった現実に、自分から働きかけられることである。選べなかった方法を選べること、他者に委ねるしかなかったことを自分の行為として引き受けられることだ。科学が万能でなくても、その人に可能な行動の範囲が広がるなら、自由は増えている。
教養が身に付くとは、知識が頭の中に保存されることではなく、学習の過程が、その人の力として残ることなのだろう。
自由が広がるから、科学の勉強は役に立つ
無論、どのような拘束でも、人を変える儀礼として正当化できるわけではない。通過しても力が得られず、自由も広がらないなら、その教育は約束を果たしていない。だからこそ問うべきなのは、教えた理論がどこで使われているかだけではなく、その教育を経て、学んだ者に何が可能になったかである。
科学を学ぶことは、一時的には私たちを拘束する。しかし、その拘束を通過することで、以前とは異なる仕方で現実に関われるようになる。理論を所有することではなく、理論を学ぶ儀礼を通して、力を持つ者になること。その結果として自由に行動できる範囲が増えることに、科学教育の実際的な価値がある。
科学を学ぶことが役に立つのは、覚えた説明にいつか出番が来るからだけではない。それを学ぶ過程を通過した自分が、以前よりも自由な存在になっているからである。
