※この文章は、ChatGPTが考えました。
人は誰しも、尊厳を持ち、自分の人生を自分の判断で歩めるべきである。その判断を支えるものとして、私は教養を位置付けたい。
ここでいう自立とは、誰の助けも借りずに生きることではない。他者に頼るときにも、何を任せ、何を自分で引き受けるかを選べることである。そして、教養とは、知識を持っているというだけでなく、そうした選択を自分のものにするための力である。
もちろん、人間の尊厳は学歴や知識量によって与えられるものではない。しかし、尊厳を持つことと、それにふさわしい扱いを受けながら、自分の意思で生きられることは、同じではない。自分で選びたいと思っても、判断の材料が足りず、他人の説明や指示を受け入れるしかない。そのような状態から抜け出すために、学ぶことには意味がある。
では、自立した生き方を目指すために、私たちは何を勉強すべきなのだろうか。
教育は一度きりで、その結果が一生を決めるのか
私たちの人生は、若い時期に教育を受け、その後は教育の成果を使って生きていくものとして描かれやすい。
子どもの頃に学校へ通い、試験を受け、進路を選ぶ。やがて学校を離れ、社会に出る。その時点で教育の過程はいったん終了し、どこの学校を出たか、何を専攻したかという履歴が、その後の本人を説明する肩書きになる。
この見方のなかでは、教育は人生で一度きりの機会である。そして、その一度の過程で得た評価が、生涯にわたって本人のステータスとしてついて回る。
しかし、若い時期の自分が、その後に望む人生を十分に理解していたとは限らない。学ぶ意味が分からなかったかもしれないし、学習に集中できる環境がなかったかもしれない。別の分野を知ってから、初めて自分の関心に気付くことも考えられる。
それにもかかわらず、過去の教育歴を、現在の能力や将来の可能性まで含めた最終評価として受け入れてしまう。「自分はこの程度だ」「今さら勉強しても遅い」という自己理解ができあがる。
私が疑いたいのは、この固定化である。学校を出たときの評価と、その後にどこまで自立できるかは、同じ問題ではない。過去の学習歴を消すことはできなくても、これから学ぶ内容まで、過去に決めさせる必要はない。
学問の地図は、そのまま人生の地図にはならない
ところが、いざ学び直そうとすると、今度は学問の広さに圧倒される。
学校で出会う学びは、国語、算数・数学、理科、社会といった教科に分かれている。それらを「文系」「理系」という二つのまとまりで捉える見方もある。ただし、初等教育から制度上その二つに分かれているということではなく、教科の違いを、後の進路区分に重ねて理解するということである。
さらに、高等教育の学問を大まかに見渡すために、ここでは自然科学、応用科学、人文科学、社会科学という区分を置いてみよう。
自然の仕組みを探究する分野があり、その知見を技術や実践につなげる分野がある。人間の思想や表現を考える分野があり、社会の制度や関係を研究する分野がある。そして、その一つ一つが、さらに細かな専門へと枝分かれしていく。
もちろん、実際には分野同士が重なり合う場所もある。それでも、学ぶ側から見れば、専門ごとに入口も用語も作法も異なり、それぞれの縦割りの内部を進むように感じられる。
この学問の地図を、そのまま「自立するために修めるべきものの一覧」として受け取ったら、どうなるだろうか。
何を選んでも、学んでいないものの方が多く残る。一つの分野を深く学ぼうとすれば、別の分野に割く時間がなくなる。すべてを知ってから自分の判断で生きようとすれば、自立の開始はいつまでも先送りされる。
問題は、学ぶ意欲が足りないことではない。学問がどのように分かれているかという問いと、自分の人生に何が必要かという問いを、混同してしまうことにある。
難しい学問ほど、人生に大きく効くとは限らない
ここで、学ぶ内容の難しさと、それによって得られる自由の大きさを分けて考えたい。
高度な理論や専門的な研究は、いかにも大きな力を与えてくれそうに見える。難しいことを学んだ人ほど、社会的にも経済的にも自由になれる。そう考えると、学び直しでも、できるだけ高度な分野へ進みたくなる。
しかし、私が本稿で提案したい優先順位は、その逆である。
社会的な立場や経済的な自由度など、広く共有される尺度で自分の生活を改善したいなら、高度な専門分野へ進むことよりも、基礎的な学問の習熟度を高めることを重く見るべきだ。少なくとも基礎に大きな抜けがある状態では、その差を埋める方が圧倒的に重要だと私は考える。
これは、高等教育より基礎教育の方が所得への効果が大きいと、統計的に証明された法則を述べているのではない。自立を目指して学び直す際に、どこへ力を注ぐべきかという、本稿の立場である。
学歴と実際の習熟度を区別する必要はある。OECDの2023年成人スキル調査でも、高等教育修了者は平均的には高い技能を示す一方、学歴だけで技能の水準が決まるわけではないことが指摘されている。(参考:OECD・成人スキル調査報告書)
私が重視したいのは、より上位の教育課程へ進んだという事実よりも、基本的なことを、どこまで確実に自分の力にしているかである。
「初歩的な内容を扱っていること」と、「初歩的にしか身に付いていないこと」は違う。基礎的な内容でも、その習熟には深さがある。
自立を支えるのは、基礎を横断する教養である
では、基礎的な教養とは、何を指すのだろうか。
まずは、言葉を扱う力である。説明を読み取り、事実と意見を分け、自分の意図を相手に伝える。分からないことを、そのまま分からないと言い、必要な質問を組み立てる。国語の学習を、試験の正解を選ぶためだけのものではなく、自分の判断を成立させるための学びとして捉え直す。
次に、数を扱う力である。割合、単位、変化、平均、ばらつきなどを理解し、数量によって示された説明を自分で確かめる。数値を見たときに、その大きさだけでなく、何と比較され、何が省かれているかを考えられるようになることを目指す。
読解力や数的思考力は、専門職だけに必要なものではない。OECDも、これらを、日常生活や仕事の幅広い状況に関わる基盤的な技能として位置付けている。(参考:OECD・読解力、数的思考力、適応的問題解決能力について)
そこに、自然の仕組みや確かめ方を学ぶ理科、社会の成り立ちや制度を理解する社会科、情報を探し、出所を確かめ、道具を操作する情報分野の基礎を加えたい。外国語も、流暢に話せることだけを目標にせず、自分の外にある情報や考え方へ接近する入口として捉えられる。
重要なのは、一つの分野だけを突出させることではなく、基礎を広くつなぐことである。
たとえば、仕事の条件を比較するという場面を考えてみよう。文章を読めても数字を理解できなければ、比較は不十分になる。数字を計算できても、条件の意味を読み違えていれば、計算結果だけでは判断できない。さらに、何が分からないのかを言葉にできなければ、他者の助けを適切に借りることも難しくなる。
このように考えるなら、基礎的な教養を網羅する目的は、物知りになることではない。自分では判断できない領域を、生活のあちこちに残したままにしないことである。
基礎を一通り学ぶことは、すべての学問を修めることではない
「網羅する」と聞くと、それだけで気が遠くなるかもしれない。しかし、ここで目指しているのは、あらゆる学問の最先端に到達することではない。
小学校・中学校で扱う内容を中心に、必要に応じて高校の基礎へ進み、各分野の基本的な見方を一通り身に付ける。専門分野を際限なく広げるのではなく、まずは、広さと到達点を区切った学習を考えるのである。
学校段階ごとの学習内容は、学習指導要領として公開されている。基礎を見渡すための見取り図を、自分一人でゼロから作る必要はない。(参考:文部科学省・学習指導要領)
もちろん、誰にとっても簡単だという意味ではない。つまずいている場所も、使える時間も、必要な支援も人によって違う。それでも、すべての専門分野を修めようとすることに比べれば、基礎を一通り学ぶという目標は、はるかに範囲を定めやすい。
そして、学び直しでは、「簡単なところに戻ること」を敗北と考えない方がよい。
分数が曖昧なら、分数に戻る。文章の関係を読み取れないなら、短い文章から確かめる。知っている用語と、説明できる内容を分けてみる。
過去に履修したかどうかではなく、今の自分がどこまで習熟しているかを見る。必要なのは、教育歴の体裁を整えることではなく、現在の自分が使える力を増やすことである。
学び直しは、一度きりの人生評価を更新する入口になる
このような学び直しを考えるうえで、情報技術によって学習への入口が増えていることは重要である。たとえばJMOOCには、無料で学べるオンライン講座が掲載されており、学校へ通う形とは別の学習経路を探せる。(参考:JMOOC)
また、文部科学省の「マナパス」では、社会人に向けて大学などの講座や学び直しの支援情報が提供されている。学習を、若い時期だけのものではなく、その後の人生でも選び直せるものとして扱う入口がある。(参考:マナパス)
これらがあるからといって、時間や費用の問題がすべてなくなるわけではない。それでも、再び学ぶことを、学校生活全体を最初からやり直すことと同一視する必要はなくなる。必要な分野を探し、必要な段階から始めるという選択ができる。
ここでいうセカンドチャンスとは、若い頃の競争にもう一度参加して、過去の順位を修正することだけではない。
今の生活で判断できなかったことを、判断できるようになる。任せきりだったことの意味を理解する。これまで選べなかった進路を、検討できるようになる。その変化自体が、学び直しの成果である。
学歴の表示がすぐに変わらなくても、自分に可能な行動は変えられる。
最終学歴は、それまでに終えた学校教育を表すものであって、最後の学びを命じる言葉ではない。
比較できる幸福には基礎を、自分だけの境地には専門を
ここまでの話を整理するために、求める幸福を二つに分けてみたい。
一つは、他者と比較できる側面を持つ幸福である。収入、生活の安定、社会的な立場、自由に使える時間、選べる機会の多さなど、共通の尺度に載せて考えられるものだ。本稿では、これを「量的な幸福」と呼ぶ。
もう一つは、自分独自の境地を深める幸福である。ある思想を深く理解したい。ある現象について、納得できるまで考えたい。誰かに評価されるかどうかとは別に、自分にとって切実な問いを追い続けたい。こちらは、他人よりどれだけ多く持っているかでは、捉えにくい。
この区別に沿って、学びの役割も分けられる。
量的な幸福を追求するなら、基礎的な分野を広く学び、その習熟度を上げる。自分独自の境地を深めたいなら、高等教育における専門的な学びへ進む。
これは、基礎を高等教育へ進むための予備段階としてだけ扱う考え方とは異なる。基礎の教養には、それ自体で生活の自立を支えるという、独立した目的がある。
一方、高等教育の価値も、収入や肩書きを増やすためだけに測らなくてよい。専門の内部へ深く入っていくことによって、自分にしか切実ではない問いを育て、自分なりの世界の理解を作っていく。そのために学ぶことは、他者との比較で得をすることとは別の意味を持つ。
両方を求めてもよい。しかし、どちらを求めているのか分からないまま、「難しいことを学べば、人生全体がよくなるはずだ」と期待すると、学びと目的の間にずれが生じる。
学ぶ目的を、自分の側に取り戻す
もちろん、この棲み分けは絶対的なものではない。専門的な仕事への道を開きたいなら、高度な学習そのものが、生活上の目標に直結することもある。基礎を学ぶ途中で、自分独自の問いに出会うこともあるだろう。
また、本人の自発的な変化を嫌い、学習や進路変更を具体的に妨げる相手がいるような環境では、専門的な学びを通じて、従来の評価枠に収まらない能力や新しいつながりを得ることが、選択肢を確保する助けになる場合も考えられる。高等教育が、自己探究だけでなく、抑圧的な関係からの自立を支えるという例外である。
それでも、基本となる問いは変わらない。
自分が今、増やしたいのは、共通の尺度で測れる生活の自由度なのか。それとも、他者と比べる必要のない、自分だけの世界の深さなのか。
前者なら、まず基礎を見直す。後者なら、関心のある専門へ深く入っていく。学問の序列から学ぶものを選ぶのではなく、自分が求める生き方から、学びの方向を決めるのである。
自立した人生を目指すために、すべてを知る必要はない。誰かより難しいことを知っている必要もない。必要なのは、自分の生活を支える基礎を持ち、そのうえで、何を深めるかを自分で選べることである。
教育は、過去の自分に一度だけ与えられた判定で終わらなくてよい。
他人と比べられる幸福のためには、基礎を広く。自分にしか分からない幸福のためには、専門を深く。何を学ぶかを選び直すことから、自立した生き方は始められる。
