勇士の弓は折られ
サムエル記上2.4ー2.8(途中まで)
弱い者が力を帯びます。
満ち足りている者はパンのために雇われ
飢えている者はもはや飢えません。
子のない女が七人の子を産み
子だくさんの女は衰えます。
主は命を奪い、また命を与え
陰府に下し、また引き上げます。
主は貧しくし、また富ませ
低くし、また高めます。
弱い者の塵の中から立ち上がらせ
貧しい者を芥の中から引き上げ
高貴な者と共に座らせ
栄光の座を継がせてくださいます。
暇なのでブログを再開する事にした。以前どんな事を書いていたかはもうほぼ忘れてしまったので、一から新しく考えていこうと思う。とはいえ、同じ人間なのでそんなに劇的に違った内容にはならないと思う。
ユダヤ人の生物学的定義はないらしい
ユダヤ「人」という話なのでそういった遺伝的要素を備えた人達のみがユダヤ人と呼ばれるのだと思っていたが、そうではないらしい。イスラエルの法律の一つによると、ユダヤ人とは「ユダヤ人の母から産まれ、あるいはユダヤ教徒に改宗した者で、他の宗教の成員ではない者」であるらしい。
イスラエルで超正統派と呼ばれるような人達は服装もみな同じで所作もそれっぽいしユダヤ人の大まかな印象が決まってしまうような風貌を醸し出している。ただ、同国の物理的な歴史は浅く、建国が1948年なので伝統を脈々と引き継いできたとまで言えるのかどうかは分からない。離散した人達も言われてみれば何となく似たような顔の造形をしているような気もする。
なぜか陰謀の主役として扱われるユダヤ人
私自身はあんまり詳しく調べたわけではないので何とも言えないものの、陰謀論などの精神世界を中心として恐らくは一部の既得権益の間でも、ユダヤ人が世界を陰から操っていて様々な悪事を働いている邪悪の権化であるという話がよく聞かれる。ユダヤ人自身の中にも、肯定的な意味で自分達が歴史の主人公であると信じている場合もあるらしい。
基本的に「ユダヤ人=富裕層」のイメージがあるらしく、国際金融資本の別名として用いられている事例も見た事がある。
どのような人達がユダヤ人として扱われるのか
そういう感じで、ユダヤ人は絶対数が少ないにも関わらず華々しい業績を方々の分野で出した傑出した人種という事になっている。物理学者のアルバート・アインシュタインとか、映画監督のスティーブン・スピルバーグとか、精神分析学を創設したジークムント・フロイトとか、他にも大勢の人がいる。
即ち、優秀な人材はユダヤ人として歓迎されうるという事で、血統の条件は歴史的にはともかく、現時点ではそんなに重要ではないと勝手に考えている。言い換えれば、自分がユダヤ人であると信じたいと思った段階で、ユダヤ人としての旅路が始まる可能性がある。
ユダヤ人である事の功罪
宗教的には、ユダヤ人はキリスト自身や十二弟子などのキリスト教の中心人物も輩出しているわけだが、なぜかキリスト教徒はユダヤ人を迫害の対象としているらしい。理由は、キリストを銀貨何十枚かで裏切ったユダがユダヤ人だったとかの気がする。それを言うならペトロも裏切っているわけだけれど、ユダの罪が重く扱われすぎて影が薄くなっているというか、寧ろローマの初代皇帝になっていた。
そういった意味では、ユダヤ人を敵対視するのはほぼ完全に根拠が無い。最近のイスラエルの容赦のない戦争のやり方には米国もうんざりしている印象があって、確かに実際に犠牲になっている人達の事を考えると瞑目するしかない。ただ、これはイスラエルの政治手腕の問題であってユダヤ人の本質を示しているとは断言できないだろう。
教養が全ての鍵
以上を踏まえると、自発的にユダヤ人を目指す事はほとんど意味の無い事である。ユダヤ人である事がステータスになるとは言い難いというか、宗教的な理由で暴力の標的になるリスクがある。日本人は僻地の異邦人なので宗教的な意味ではほぼ無視されていて、このような土俵で戦える自信があるなら踏み込むのもあるかもしれない。
まぁ、普通は宗教の教養だけで良いかもしれないが、経済の教養は持っている事が前提とされていると思う。政治が立法・行政・司法の三権分立を建前でやっているように、経済の方も金融・物流・人事のように三分割できると個人的に考えている。ユダヤ人を教養の枠組みで定義するなら、宗教と経済の教養が突出している人達と言えるだろう。
ユダヤ人の歴史的位置付けを尊重する事は悪い話ではない
従って、陰謀論者の言うようにユダヤ人が世界規模の出来事を操っているという見方も部分的には正しいのかもしれないが、現代科学の枠組みで教養を駆使して行なっている事を考えると、邪悪であるというよりは善良であると見做されるし、陰からではなく正面から堂々と行動している事になる。
要するに、ユダヤ人は貴重な存在なので見守り続けるべきだというのが個人的な結論である。根拠の無い先入観に振り回されずに、対等以上の人種として接するのが無難だろう。
クリスチャンが抱くユダヤ人への悪感情は本物
さて、他ならぬユダヤ人が聖書の中心人物の血統であるにも関わらずその文脈が誤解されてキリスト教徒に生得的憎悪を抱かれて迫害の対象となり、かつては分かりやすくプロテスタント発祥の地であるドイツで恐ろしい歴史的事件もあった。現シオンのイスラエルは周囲を中東に囲まれていて一見四面楚歌のようにも見えるが、イスラム諸国の信じるクルアーンは自分と相手の立場を変換して考える癖がある実践主義なので、ある意味では原理主義的なクリスチャンの最終的決断に対する守りとなっている面もあると感じる。
この存在論上の矛盾は直接的には神が不在であるとかなぜ悪が存在するのかとかの道徳・倫理上の、或いは神の働きかけはキリストより以前の内容は彼に劣るものであるだけでなく彼を最後に終わったのであってそれ以降は全て悪魔の仕業だという政治的ご都合主義の、神学的議論を引き起こし学問の土俵で何百年も議論が続いた。素朴に考えれば神の伝道血族であるユダヤ教の人達を迫害しているのだから神の存在や働きかけを必ずしも実感できないのは当たり前なのだが、冷静に考えられなかったのかもしれない。
神と人類が共にある信仰は可能なのか
ただ、確かに新約聖書にはユダヤ人の心が堕落しているとか腐敗しているとか書いてあってその事が諸悪の元凶のように書いてある。一方で、旧約聖書では人類が神へ反逆し罰を受けて悔い改めると繁栄が回復するという反復の歴史が綴られている。キリスト教徒として両書の区別を明確にするのであれば、新約でも旧約の神への反逆と悔い改めというテクストが基礎となって継承されているとして、果たしてどちらが本当の勝者でどちらが本当に堕落・腐敗してしまっていたのか、或いは第三の解釈があるのか、という事になる。
私個人の一つの解釈としては、新約は一種の論理的暗号文なのではないかと考えていて読み替えが必要なのではないかと見ている。というのも、キリストが本当に十字架に掛けられて敗北したのであれば、敗者の歴史が奇跡的に淘汰されずに世界最大の宗教となってしまった点に疑問を感じるからだ。例えば、キリストが本当にモーセのような奇跡的権威を以て大勢の人達を倒してしまったとして、そのような内容を聖典に残すのは問題があるだろう、というような感想を持った。そして、この暗号の解釈や再発見を果たす上できっと、ムスリム共同体が重要な役割を果たすだろうと信じている。
ミカエルとガブリエル