コミュ力お化けとは

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無知な者に知恵は高く及ばない。
城門では口を開くな。
悪事を企てる者は
陰謀家と呼ばれる。
無知による企ては罪
嘲りは人間としていとうべきこと。

箴言24.7ー9

人間関係を醸成する事のメリットについて考えていたら、ふと「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない。」という名言を思い出して、なんとなく何か書こうと思った。

学問だけでは身を立てるのは難しい

私が学童期に真面目に勉強する気が起きなかった理由のうち大きなものの一つとして、物凄く優秀なのに雀の涙ほどの給料だったりだとか予算が全然降りずに全く見込みが無い不遇な環境で研究させられたりだとか、そういった勉強しても特に何の意味も無さそうな事例が割と見つかったのはある。

自分自身、そんなに勉強ができる方ではなかったしやる気もなかったし面白いテレビゲームが沢山ある時代に生まれたし、かといって何らかの一芸に秀でているわけでもなく本当に凡才だったわけで、鼻くそほじりながら片手間に学問の課題をこなせる程の優秀さはなかったので、人生を賭けようとは思えなかった。

勤勉さの実利を巧妙に隠す教育界

この辺は仕方無い事なのかもしれないし私の妄想なのかもしれないけれど、特に理系などの数学に基礎付けられた自然科学系の学問で良い結果を出すと、いわゆる自分の実力でというか、自分のアフォーダンスの範疇が広がるように感じる。システム科学的な捉え方をすると、己という個体を媒介して起こせる自然現象の幅が大きくなる。

教育熱心な保護者の中にはアメとムチのように熱心に勉強したり好成績を取ったらご褒美を与えてサボったりひどい成績を取ったら罰するというような方針の人達もいるらしいと聞いた事があって、短期的な目線で見れば現実に即している。一方で、そういった即物的な利益に囚われるようになるとモチベーションが失われて最終的な到達度が低くなりやすいといった懸念がある。

学問は積み重ねの功罪

他の歴史とか地理とかの純粋な意味記憶としての暗記が問われる事が多い科目はどうか分からないけれど、理数系のなかんずく数学は積み重ねの学問だと言われていて、これは前に習った概念を前提としないと次のより高度な概念が理解できないという建前でよく語られる。まぁ、それは大体合っていると思うし、ステータスでいうところのレベル足切りのようなものはある。

特に義務教育時代では、国数英理社の黄金の五学科を常識として身に付ける事を強制されるので突出した強みを持っていても活かす事は難しい。早め早めに職業訓練を積ます事が良いとは言いきれないものの、実社会に出た後に一度も使わないであろう知識を何の為に一生懸命勉強するのかと思いを巡らす人は少なくないだろう。

強い人が優しい人に負ける理由

きちんと学業で結果を出すような人は、少なくとも教育界の基準では強い人という事になる。実際のところ、教養をきちんと身に付ける事に成功すれば実力的には負ける心配はない。それでも、現実のヒエラルキーとして強い順というよりは優しい順で権力を持っているように映ってしまうのはなぜなのか。

その理由の一つとしては、前にも似たような事を述べたけど科学は「なにができるか」を技術的に解決してくれるけど「なにをすべきか」については何も教えてはくれない点が考えられる。できる事が増えれば増えるほどどのように振る舞う事が最善であるかという問題も大きくなるのかもしれない。学歴の相互作用の力学のタペストリーの中で大きな判断ミスをすれば取り返す事は難しいかもしれない。

優しい人になる為には

単純にエスカレーターをトントン拍子で上っていくようなそれに近い人生を経験すると、他者の苦痛に共感する事は難しくなりやすいのは現実としてある。優秀さ故に相手の立場になって考える能力も高いとして、それはあくまで想像しているだけであって経験しているわけではない。かといって、ただ挫折してしまったら単純な負け犬になる。

影絵のような偉人は関わる人達に後により深い失望をもたらし、真実を語る道化は見ず知らずの人達の道を断ってしまう。従ってどちらの両極端も避けねばならず、現代物理学の量子論で粒子なのか波動なのか分からないというように、学問的に成功しているのか失敗しているのか分からないような経歴を組むと、失敗と成功の経験をバランス良く積む事ができてどちらか一方に完全に染まってしまう事は避けられると期待したい。

東洋科学と似非科学の微妙な相違点①

今まで挙げてきた科学の話は当然ながら西洋科学の話をしていたのだけれど、そういえば医学などでは中国や印度などが発祥の東洋医学がある。他の記事に書いたような気がするけど私は医学系の教育機関に行った事があって、そこで驚天動地の末期的な成績を取り続けて退学になったので偶然にも「挑戦する事の意義」について発見した。そこで私が気付いたのは、とりあえず入門すれば勝ち確になるという現実で、具体的にはどんな科目でも履修すれば修了したかどうかに関わらずその技術は体得できる事に気が付いた。

私は自分が特別な才能でも持っているのかと勘違いしそうになっていたけれどそうではなく、義務教育時代などに壊滅的な成績を取り続けた結果として東洋的アプローチがいつの間にか身に付いていたのだと気付いた。もちろん、前提として、特に大学の単位だと60点以上取らないと駄目なのは知っている。30点未満だと再試も受けられない事がある。そして、単位を全部取って進級しないと次の学習機会を得られない。ただ、その科目の評価に限って言えば、どうも色んな得点域の点数を取り続けて気付いたのは、そういった合否の問題だけではなく質的な意味合いも含んでいる事だった。

東洋科学と似非科学の微妙な相違点②

感覚としては、壊滅的な成績を取ると、医学の場合は調子の悪い部分のツボ押しを生涯断続的に受けられるような気持ちよさがある事が分かった。この特権はお金を払ってアマチュアの鍼灸師などに不完全な施術をしてもらっている人なら分かると思う。まぁ、施術をされるのと自分が施術するのとでは全然違うんだけれど、徐々に身に付いていくのもある。一方で、新たな発想や着眼点を求めて西洋科学を極めたような人がこういった「非科学」に傾倒していって結果的に似非科学の権威になったりする。誰にでもそういった分野への誘惑はあるようだけど、骨折り損のくたびれ儲けになってしまう事が多い。

という事で、東洋科学と一般的に総称できるようなアプローチの正体は、対応する西洋科学の講義を取って「自然の流れに則って」悪い成績を修めた時に最も効率的に身に付けられる事がはっきりと分かってしまった。懸命に勉強してきても学者として一流として認められるのは難しいので変質してしまう人が多い中で、こうした従来の西洋教育の範疇で敢えて劣等に甘んじる事によって東洋のスキルが効率的に身に付けられる素地ができるのは大きな福音であると言えるだろう。とはいえ、決して西洋が東洋に本質として秀でていると主張したいわけではなく、学問の方法論として捉えた場合にそういう分類になっているというだけだった。

ガブリエルとラファエルとウリエル

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