発射不能の銃の真実

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支配と恐れは御もとにあり
神はその高みに平和を作る。
その軍勢の数ほどのものが他にあるだろうか。
その光に照らされない者がいるだろうか。
人はどうして神に対し正しくありえようか。
女から生まれた者がどうして清くありえようか。
見よ、月でさえ輝きを失い
星々も神の目には清くない。
まして、人は蛆
人の子は虫けらにすぎない。

ヨブ記25.2ー6

生きている事は素晴らしいので、また新しい記事を書く事にした。

何が起こっているのか分からない

物理や数学などの自然科学のように、自分の人生のキャリアなどの成功体験を因果関係として説明できる人はいない気がする。現実に起こる出来事は複雑怪奇で多種多様な要因が働いている為で、上手く狙い通りの結果を導く事は難しい。だからこそ、才能を開花させた人物は尊重されるし敬意を持って接する事になる場合が多い。一方で、何をすれば失敗してしまうかについては割と簡単に目星が付く事がある。理由としては、何か一つ禁忌を犯してしまうと一発アウトのような単純な地雷系が多いからだと思われる。

そういった意味では、先人の知恵として伝えるべき内容は「〜しなければならない」のような義務の列挙ではなく「〜してはならない」の禁止事項の列挙という事になるかもしれない。それ程に現実の出来事を操作するのは難しく単なる頭の良し悪しの問題でもないだろうし、寧ろ頭が良い人が方針を間違うと完璧に失敗するので質が悪い。私は人生を振り返って何が駄目だったのか間違い探しをしそうになる事がよくあって、結局のところ結論が出ないのはじゃあどうすれば良かったのかという事が分からない点に尽きる。

日本という不思議な国に

私には西洋人が信仰を捨ててしまったように映っていて、紋切り型の儀式に励んでいるのは分かるのだけど、そこには心が込もってないんじゃないかという先入観を持ってしまっている。実際に観察したわけでもないのに失礼な話だけど、どうも宗教界の世界の頂点クラスに君臨しているにしては神の御心を形にする事ができていないのではないかという疑問を持ってしまう。しかし、そんな説教地味た考えだけでなく、これも先入観になるのだけど、神に守られているという印象が持てない。

じゃあ日本人はどうなのかと言えば、説明できるほど人の心の機微に敏感でないのであんまり当てにならないのかもしれないけど、日本の場合は宗教という自覚を持たずに深い信念と同化して生きている人が多いように感じられていて、神だとか仏だとか具体的な信仰の対象がある場合もあるし倫理的な行動規範などのような抽象的な指針のようなものが板に付いている人も多いと思う。西洋にも高度に内面が陶冶されている人はたくさんいるのかもしれないけど、形から入っている印象を持ってしまう。

誕生した理由は

最近は約束の地というか、アブラハムの宗教の共通の聖地であるエルサレムを抱えるユダヤ人国家であるイスラエルが好戦的になっていて、イスラム諸国に囲まれているので四面楚歌で何とも不遇だなと思ってしまうのだけど、なぜいきなり発憤したのかが全く謎で困惑している。学問を重視する立場としては聖書に綴られた歴史としてシオンに集結する事にこだわる気持ちも分からなくはないけど、いかんせん分が悪い。いくら優秀な軍師がいても多勢に無勢で普通に戦って勝利するの難しそうだ。

今後どうなるか分からないけど、今のところ日本はまだ安全で平和な国で過ごしやすい。娯楽も山のようにあるし勉強しようと思ったら教材も山のようにある。毎日戦争の恐怖に脅かされながら生活しなければならない環境は大変な心労だ。ただ、西洋の宗教術理というか論理は通用しない可能性があるので、一芸に秀でるくらいに技能を強化した上で出る杭は打たれないように横並びで何となくやりすごすという生き方ができると快適だ。

サイエンスの真実とは

今日も修行をしていたらとても素晴らしい考えが頭に浮かんだ。それは、科学的知識というものがどのような過程を経て生まれ変わっているのかについての仮説である。前提として、私は定常宇宙論のような静的な真の科学的知識の体系が唯一存在するとは考えていない。科学は生き物であって、人類の行動などによってその都度少しずつ再生しているのだと考えている。という事は、過去の現時点で考えればオカルトであると言われたような体系もその時点においては真実であって、ある段階で集合的な認識の急激な変化によってパラダイムシフトが起こったのだと考えられるが、その話はとりあえず脇においておく。

もう一つの前提として、科学は科学技術と呼ばれる事もあるくらい実用的な知識であると理解されているわけだが、私のこれまでの体感として単なるコミュニケーションの為に共通の枠組み(リンガ・ブランカ)として用いられる認識論の体系であるという考えを持っている。極端な例を挙げると、人間は呼吸をしなければ窒息して死んでしまうけれど呼吸と代謝の関係性を理解しているからといって窒息死を免れるわけではないし、見た事は無いかもしれないけど力のある宗教家や政治家などが不治の病を治したりした場合にそのメカニズムを科学的に説明できる必要は無い。要するに知っている事自体が力を持つ状態とは少し違うと言いたい。つまり、「科学は生まれ変わる+科学はコミュニケーションの為の方便」であって、その上でどのように一意に知識体系として定義しているかの話になる。

そこで私が閃いたのが、これまで何の為にあるのか分からなかった学歴による階級制度がここで効いてきているのだという事になればすんなりと全てが腑に落ちるのではないかという事だった。言い換えれば、教育を受けようが受けなかろうがその人の技能に直接的な影響は出ないけれど(間接的な影響は大いにある)、学識の一部として主体の知識がどの程度反映されるかについて教育の習熟度によって決まるに違いないという結論に辿り着いたのだった。もう少し掘り下げて考えると統計的に有意となって学識として認められていないレベルの現象が組み込まれている可能性なども吟味する必要があるような気もするけれども、簡単に言えば、現在形で存命する教育を受けた人類全体の学識に関する「思想」が集合的に上手く辻褄が合った状態になっているのが科学的知識と呼ばれるものなのではないかと言えると考えた。非常に単純明快で世の中の不思議を説明できる素晴らしい理論だと思う。

ミカエルとラファエルとウリエル

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