人生イージーモード

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あなたは不正を喜ぶ神ではなく
あなたのもとに悪がとどまることはありません。
驕る者は、あなたの前に立つことはできません。
あなたは、悪事を働く者すべてを憎み
偽りを語る者を滅ぼします。
血を流す者と欺く者を主は忌み嫌います。
しかし私は、豊かな慈しみによって
  あなたの家に入り
あなたを畏れ敬いつつ、聖なる宮にひれ伏します。

詩編4.5ー8

大分間が空いてしまった。ワードプレスとクラウドフレアのアクセス解析の内容が食い違っているのでボットなのかJSを無効にしているのか、読んでいる人がいるのかいないのか謎データになっている。

幸福と不幸の区別がつかないというホラー

私は最近、具体的にはここ数年になってやっと発達障害かもしれないという事が認知されてきたらしく、そういったラベリングの問題はどうでもいいと感じてはいるが、診断を受ける事で人間社会で生きやすくなるのであれば悪くないくらいには捉えていた。

発達障害の人達は冗談が分からなかったり常識が分からなかったり、一般人が身に付けている情操の一部が完全に欠落しているか極端に歪んでいる事がある。どちらかと言えば後者はパーソナリティ障害に分類されるかもしれない。

常識が分からない事で生きにくさを抱えてしまう事は本当につらい話で、私の場合は幸福と不幸の区別がつかない問題があって深刻だった。身体の病気や苦痛なら生理的に苦しいので避けようと思うのだが、精神的な苦痛が分からなかったというか、社会的な評価とか成功の基準が理解できなかった。

例を挙げると、極端な例にはなるが王様と乞食の差が分からなかったし、豊かな人間関係に恵まれてる環境と完全に孤立無援である状態の差が分からなかった。これは単純に自分が恵まれている環境にいたからかもしれないものの、本格的に転落人生になって様々なボコられに遭遇しても経験では分からなかった。

食い違う精神と肉体が悲鳴を上げていた

現実にひもじい思いをすると飢餓なんか絶対に嫌だし飢餓で苦しむ人を無くしたいという殊勝な志さえ生まれるかもしれない。同じように、一般常識的にも自分が苦労すれば他の人の気持ちがわかるようになるという経験値説は説得力があって、確かに健康な人ならそうなのかもしれないが、発達障害の私には当てはまらないようだった。

周囲の人達は社会基準のエリート街道から脱落したからアイデンティティの問題に苦しんでいるのだろうという紋切り型の見方をしていたように感じていて、確かに見た目ガリ勉のように映らなくもない風貌ではあったものの、義務教育時代にどんな生活をしていたか確認すればおよそエリート主義とは縁の無いスタイルだった事は分かるはずだった。

それでも、社会的な地位や世間的なつながりなどに圧迫されるとなぜか焦燥感に駆られたり孤独感に苛まれたりしてひたすら感覚的に苦しい状態が続いた。個人的には、そういった事には無頓着なタイプだと思っていたので意外性があった。自分でも驚くような言葉や行動が自分自身から出てきて驚かされるばかりだった。

自然科学の不可逆性というマイルール

適当な私にも一応自分の中での言動の基準はあって、自分の能力で可逆的に取り組める物事に関しては何を行なっても問題はなく、物理的に不可逆的な変化(厳密ではない)になってしまう場合は細心の注意を払う必要があるとは考えていた。例えば、五体不満足になったら腕や脚は生えてこないので不可逆で選択できないとか、教育機関や労働環境でドロップアウトしても勉強や仕事はいつでも取り組めて可逆なので問題ないとかだ。

多くの人達には共感できないかもしれないというか、寧ろ逆かもしれない。生物としての健康と社会の一員としてのステータスを維持する事を比較して後者を選び取る人の方が多いかもしれない事は色々な場面で目の当たりにしたような気はする。これは一度キャリアパスから脱落したら這い上がる事が難しいという根拠のない先入観に起因するところが大きい。

実際に自分が体験してみた感触では、脱落するような人が必要な学習量を事後的に修める事が珍しいだけで、這い上がる事自体が難しいと考えるのは都市伝説のようなものらしい。日本人は食材でも味と関係なく見た目が駄目な物はスーパーに出回る前に排除したりとか衛生面というか形に拘るようなところはある。また、この考え方はやってはならない事に関する自分なりの考えだったので、主体的にどうすべきかという話とは関係ない。

何をしても長続きしない情緒不安定なノリ

世の中には研究者気質の勉強や仕事に熱心に自発的に取り組む事が苦ではない人達がいる。私もそういう人種のはしくれではあったが、価値観の不安定さからいまいちそういった建設的な努力に身が入らなかった。探求する事の喜びとか人を笑顔にする事のやりがいとか、確かに本人は本気でそう思っているのかもしれないが、社会的な地位や名声の事を全く考慮していない人もいないだろう。というか、寧ろそういう事を考慮できないと社会生活に差し障りが生じる気がするので、精神医学の範疇では健康とは言えないかもしれない。

誰でも何かを継続する事は難しいのだろうけれど、真っ当な仕事なのに途中で何でこんな事をやっているのだろうと空しくなってきてやめる人はそんなにいないと思う。単純に脳疲労の問題かもしれないとはいえ、私の場合はどんな分野に取り組んでも何でこんな事を自分はやっているんだろうと感じてやめてしまうので、何も身に付かず、少なくとも仕事で実用できるレベルの技能にもならなかった。まぁ、これは生まれつきの才能や学習の要領の問題もあったが、直せる気がしなかった。

二桁の足し算を間違えて焦る

精神科に通院し始めて一時期は入院もしていたが、自宅で療養するようになって暫くたった時にたまに外食などをしておつりの計算をする事があって、それができなくなっている事に驚いた。抗精神病薬を服用する前は、少なくとも二桁の掛け算くらいなら暗算で間違えた事がなかったので、二桁の足し算を間違えるのは衝撃だった。面白かった部分もあったものの、このままだと本格的に呆けるんじゃないかと危機感も持った。

それで、その頃ちょうどリカレント教育などをやっていて、精神科のデイケアで行うリハビリと乳幼児向けの教養カリキュラムの創造的な課題が非常に似ている事に気が付いた。高度な問題に取り組むより、もっと基礎的な事をやり直せば何か救いがあるかもしれないと感じて子供向けのカリキュラムに取り組むようになった。

何となく心が重苦しくなって頭の中で悪循環に陥る度に駆り立てられるように子供向けのカリキュラムに取り組んだ。そういった事を繰り返しているうちに、遂に全学年のカリキュラムを全てクリアしてしまった。また、普通のカリキュラムもある程度こなして、義務教育の算数はある程度問題なく復習できたので計算力は下がっているが即座に呆ける事は無さそうだと安心した。

なんとなく寛解してしまった気分になる

以前は何の前触れもなく発作的にしんどくなって自分の考えを書き出し続けて疲れたら寝て忘れるというような事を繰り返していて、自分の中で自己完結してはいても健全な状態とは言えなかった。なぜ常識を信じておらず理解できないのに常識で自分が縛られているのか本当に不思議だったが、それが何となく無くなった。また、一般人がどういうセンスを持っているか科学的に理解に近付く事ができたのは本当に楽しかった。今までは理解不能な妖怪の集まりのようなイメージしか持てていなかった。

こういう硬めの回りくどい文章になってしまうのは自分でも感じていて、個性というよりはまだちょっと不本意な不器用さが残っているというか、最適化されていない部分があるとは感じている。というより、何の苦痛も感じなくなったので直す必要性も感じなくなってきつつはあって、相変わらず失礼な言動を行なってしまう事もあるものの、それも過剰に気にならなくなってきた。

にしても、元々ちやほやされる事が恥ずかしいというか耐性が無くて適当に底辺層あたりで生きたので問題無いと思っていたものの、学習歴を積み上げなかった代償は思ったより根源的に徹底的に働いてきて、人格が妙に捻じ曲げられたり言動が強制操作されたりほとんど超能力かと言えるようなデバフが掛かったので相当焦った。成績は悪いけど頭は良いとか性格は良いっていう立ち回りをしたかったんだけど難しかった。リカレント教育で補強した今でも原則として基準は日本国内の正規の教育歴のみが参照されるので公に真っ当な人間として扱われる可能性は少なく、もう少し上の方の設定になるようにした方が良かったかもしれないと若干感じた。

簡単な事ほど手抜きをすると穴埋めが難しい

という事で、長々と書いたものの結論は簡単だ。遺伝的要因によらない生理・心理的な発達障害はリカレント教育で治るという単純明快な解が出た。いやはや、そんな簡単な事で治るなら誰か教えてくれればささっと最初からこなしていたのに、自分で科学の仕組みをリバースエンジニアリングして初期の学歴による設定の問題に原因を帰着させるのは至難の業だった。

まぁ、多くの人は私の結論には納得できないだろう。というより、何を言っているか分からないかもしれない。少なくとも私個人の体感としては、子供向けのカリキュラムを鑑賞し続けるだけで心の重荷はほぼ無くなった。代替医療で漢方とか先進医療で放射線治療とか標準治療に取って代わる方法は数多くあれど、幸か不幸か軽度の障害は学び直しで解決できる事がはっきりと分かってしまった。分かれば簡単だなって思った。

ガブリエルとウリエル

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