聖域としての教育界

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どうして、忠実な町が遊女となってしまったのか。
公正に満ち、正義がそこに宿っていたのに
  今や殺人者ばかりだ。
あなたの銀は金滓となり
酒は水で薄められている。
長たちは反逆者となり
盗人の仲間になっている。
彼らは皆、賄賂を好み、贈り物を要求する。
孤児のために裁かず
寡婦の訴えは彼らのところまで届かない。

イザヤ書1.21ー23

誰も見てないのに、また見せる気も無いのに、何となく暇潰しにこんな世迷言を書いてしまうのはどうしてなんだろうか。やはり神への訴えというか、祈りなのかもしれない。

多様化する教育方法

最近ではMOOCsをはじめとする通信制の教育が特に高等教育で盛んに行われるようになった。コーセラやエデックスといった有名なプラットフォームでは学士や修士をオンライン教育を通して取得する事ができる。また、国内ではサイバー大学のようにオンラインであるだけでなく、長期間に亘って単位を積み立てられるマイクロクレデンシャル制度を導入した事例もある。

こういった教育機関の特徴は、受講料が伝統的なそれらに比べて非常に割安で済むところであり、無償提供されている教材も少なくない。にも関わらず品質はかなり高いので、意欲さえあれば誰でも学習の機会が簡単に得られるようになった。少なくとも基本的人権を有している程度の環境があれば、日本などの先進国では勉強する方法が見つからない事は無い。

教育機関の取捨選択が人生を左右する

選択肢が多種多様になる中で、そんな事には目もくれずに保守的に偏差値が高い国立大学を目指して、即ち最終的な学習目標を大学合格に向けて、乳幼児の頃から学習計画を組むような人種も今でも大勢いるのだろう。というより、教育熱心な富裕層はそういった路線を目指すのが普通なのかもしれない。私も自分自身の現実はともかく思想としては、それで正しいと考えていた時期もあった。

最初に書いたように科学教育の世界は今でも聖域で、政治的圧力とは無縁である。圧力が掛かっているように感じる事は誰でもあるのかもしれないとはいえ、そういった場合も過去の成績に帰着されるというか、満点か少なくとも1位を取らないと成績に基づいた圧力は掛かるようになっている。それに、大学間での圧力もあるだろうから、偏差値の違いで補正が掛かる点も考慮しないといけない。

真実の灯台であり続ける科学教育の世界

一昔前は科学の世界全般で嘘や誤魔化しは行わない事が一般的だった。論文の捏造や統計のからくりマジックのような事は、一部の特殊な研究者や特別な研究分野を除いて行われる事は無かったと思う。それが今では、論理の組み立て方もさる事ながら、躊躇なく研究データの改竄やそれに類する暴挙が行われているようだ。

一方で、科学研究の世界ではなく科学教育の世界においては、依然として真実を伝えようとする努力が続いているように見受けられる。確かに前提となる基礎知識が食い違うようになるレベルではまともな議論も成り立たなくなるし、有能な人材を抽出する事も難しくなるかもしれない。それに、現実認識を一括で操作する事も難しくなるかもしれない。

学び直しを行わない現代人

多くの人達にとって、勉強をするのは苦痛を感じる事らしい。私からすると働く事の方がよっぽど大変だと思うけれど、いわゆる大人は熱心に身体を動かしてバリバリ働きながら教養以外のあらゆる手段を用いて目的を達成しようとする。政治であったり宗教であったり、他にも色々な方法があるのだろう。一番多いのはカネの力か。

現代は情報強者であり続ける事が生き残る為の必須条件の一つであるので、情報収集にも政治手腕などの活用に余念が無い。それは間違ってはいないけれど、その辺の標準的な教科書に載っているようなそんなに理解が難しくもないような内容でも誰かに聞いて解決しようとする。明らかに間違っているような嘘でも人脈の力の方を信じてしまう。

広がり続ける教育格差

基本的には教育は積み重ねなので、基礎ができないと応用もできない。自分で考え続ける習慣を持っていたり生まれつき特殊な体質だったりする人はIQ的な能力などが高くなっていきなり難しいテーマを扱えるような例外はあるものの、私を含む凡人達は階段を上るように一歩一歩進んでいかないと何も身に付かない。

私が社会というか世間を俯瞰した所感としては、前成長段階での発達の程度が未熟な人材が多い印象がある。こういった人達は自分自身の情動の理解や制御に困難を抱えるだけでなく、根拠の無い感覚に振り回される。義務教育周辺以前の教養がボトルネックとなっている結果、才能は生まれつきの能力であるという当たり前ではあるものの残念な人間観になっている事が多い気がする。

政治厨に未来はあるのか

結局、現代科学が実用技術のデファクトスタンダードとなっている以上は、その根拠となる学歴の積み増しを行う以外に身を立てる方法が存在するとは厳密には言えないだろう。多種多様な背景や能力を持った人がその個性を活かして何事かを成し遂げる事を否定するわけではないけれども、それも真っ当な有識者のバックアップが無いと厳密には成り立たない。

そういった独自の路線を歩む人達は自分が決死の背水の陣を敷いている事に気付いていない場合が多い。教養を持つ有識者達はその種の職人的な生き方を尊重して出来る限りの配慮をしてくれるだろうし、力を持つ熱心な支持者が付く事もほぼ確実かもしれないとはいえ、自分自身の教養も出来る限り強化した方がいざという時に自分で自分を救う事が出来る。

全ての対立の原点は「理系VS文系」

なんか久々に書き足す事にしたけど、改めて読み返すと自分がこんな事を考えていたのかと驚きがある。精神病で若干認知きてるので何考えたかあんまり覚えてない事がある。実用技術のデファクトスタンダードと書いた時には他にパラダイムが有り得る事は念頭に置いていたものの、科学権力を持つ当事者自身が最も科学を逸脱する危険性を孕んでいるというカラクリまではあまり深堀りできてなかった。ともあれ、科学教育に代わる新しいパラダイムを打ち立てるのも無謀なので保守的な解決策がないかと思っていたわけではないけど、科学の枠組みで先に進みたいなら理系と文系で区別すれば良くないかと思いついた。

簡単な話で、理系が自然界の利権を持っていて文系がそれ以外のコネコネ系なのだから理系を増やして文系を減らせばイノベーションは進むだろうという結論になった。理系の学位保持者が専門に応じた自然を操れるという前提では、ある意味では最も人為を駆使できる存在でもあるわけだけれど主客の分離という意味では逆に文系が客観的視点という見方を発明したのではないかと感じられるようになった。なんせ、自然科学だけなら自然なのだから意味も価値も生まれない最適化された自然界が自動的に成立するので、客観的世界を自覚できないというか、自分自身を自覚できなくなるだろうと考えられるからだ。

人生は自己責任

という事だけど、なんか誰かと話していて無駄のない人生を生きたいのならそもそも生きる意味無いのではという問題提起がされた事があって、ある意味では何もかも無駄でそれを楽しむ事が人生になるという突拍子もないような話があった。ビジネスや産業では生産性が最大化される事が目標とされるのは当たり前なのに、もっと大きな人生の意味という枠組みではむしろ無駄しかないじゃないかという話だった。そう言われるとそうかもしれないので、だとしたら単純に文系を絶滅させる方向で進めるのは思慮が足りないかもしれないとも思った。ただ、自然回帰的なノスタルジーを実現させたいと思っている人がこの種の理論を唱える事が多いので、それなら理系だけいればいいだろうという事になる。とはいえ、とても面白い論点だった。

仮に理系対文系の聖戦のような構図を作り出して争ったとして、どちらかが完全になくなるという事が現実にあるのかどうかは大いなる疑問で、天使と悪魔じゃないんだから不倶戴天の敵というわけでもないんだし、文理の区別は曖昧なもので文系の学問でも数学や統計学を駆使しているものもあれば、理系の学問でも言葉遊びばかり続けている分野もあるだろう。じゃあ全部数学化してしまえば解決するんじゃないかという気もしているものの、自然言語を符号化するのがそんなに簡単ではなさそうなので最近の生成AIが何か知見を与えてくれるかもしれないと期待しつつも今のところ文理共存を目指すべきだと言わざるを得ない。ただ、戦争とか疾病など不本意な形でハンディを背負わされるのは主に文系の存在による自由度が原因なので、その場しのぎの有効策としては考えられなくはないのかもしれない。

ガブリエルとラファエル

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