主の言葉が私に臨んだ。
エゼキエル書 15章 1節~8節
「人の子よ、ぶどうの木は、森の中の枝のある木に比べてどこが優れているだろうか。
その木から何かを作るために木材を取り出せるだろうか。あるいは、何かものをかける木釘を作れるだろうか。
それは薪として火に投げ入れられ、火はその両端を焼き尽くす。真ん中まで焦がされては、何の役に立つだろうか。
それが完全なときでも何も作れないのに、まして火に焼かれ、焦がされたなら、一体何の役に立つだろうか。
それゆえ、主なる神はこう言われる。私が薪として火に投げ入れた、森のぶどうの木と同じように、私はエルサレムの住民を投げ入れる。
私は彼らに顔を向ける。彼らが火から逃れ出ても、火は彼らを焼き尽くす。こうして、私が彼らに顔を向けるとき、あなたがたは私が主であることを知るようになる。
私はこの地を荒廃させる。彼らが背信の罪を犯したからだ――主なる神の仰せ。」
書く事が思いつかなかったので長い間放置していたのだけど、陰謀論者の両親と話していて気になった点があったので言語化してみようと思った。その論点とはずばり、悪魔と悪霊の区別はどのように行いうるかになる。なんか陰謀論の界隈ではその辺の著名人を槍玉に挙げて悪魔崇拝者扱いする事が多いらしく、色々とツッコミどころがあるので真面目に考えようと思った。
一、悪魔崇拝とは何か
古き良き伝統宗教の信徒としては、悪魔崇拝という言葉を聞いてもピンと来ないだろう。或いは、そんな事を話題にするのは忌避してしまうかもしれない。私もこういう話を公の場で語ろうとは全く思わないものの、心身共に健やかなる陰謀論者の界隈では悪魔というキーワードがよく出てくるし、IT長者や金融界の重鎮はみんな悪魔崇拝者で邪悪の元凶であるという風な表現がされる。私が支持しているというか、関心を持っているユダヤ人種もやはり攻撃の対象になる事が多いので非常に憂慮している。
私の印象では陰謀論者が証拠として持ち出してくる情報は大抵の場合が捏造で根拠がなく、或いは矛盾していて意味を持たない事も多い。そんな彼等の主張によれば、お偉方の人達の多くは性的倒錯の嗜好に陥っており、それが悪魔崇拝の証拠であるらしい。一般化すると、愛情表現が倒錯している人達というか、臨床精神医学的には愛着障害を持っている人達が悪魔崇拝者になるらしい。そして、何かそういう感じの写真とか動画とか文献とかを自信満々に突き出してくるらしい。
二、悪霊崇拝とは何か
つまり、陰謀論者の人達は形而下の基準で考えて不健全である慣習や習慣に溺れている人達の事を悪魔崇拝者だと捉えているらしい。なぜなら、そのような非健康的な「儀式」に勤しむ事で悪魔に認められ絶大な力を与えられると信じて行動している為であるらしい。出来の悪い三文ラノベでもこんなつまらない設定をしないような気がするし、この人達の悪魔の理解は多分中世の西洋の貴族の間で流行っていた呪いの類の話に出てくるエンタメ作品が根拠になっているんだろう。とはいえ、アカデミックな形でもこのような悪魔研究が行われているのだとしたら踏まえておかないといけないかもしれない。
私の感覚というか経験では、このような不健全な儀式に勤しんでいるような人達は悪魔崇拝者ではなく悪霊崇拝者として定義し直せると考えている。陰謀論者達の大きな間違いの一つは、悪魔が人間的な形而下の基準で善悪の判断を行うという前提である。もっと簡単に表現すると、悪魔の判断が情緒に基礎付けられていると考えている点になる。多分宗教に関して全くの素人だからそんなセンスのない結論になるんだと思うんだけれども、悪魔が人間的な善悪を関知するわけではないし、もっと言えば天使だって同じだろう。悪霊も感知はしないけれど関知はするという微妙な立場ではあるけど、別に悪魔が悪霊より優れていると主張しているわけではない。
三、陰謀論者の立場は何か
それで、こういった主張をする人達自身はどういう立場なのかという疑問が湧き出てくる。確かに現行の既得権益の人達はあまり優れた政治手腕を持っていないのかもしれないし、人心掌握に長けていると言えないのかもしれない。私の見たところ、陰謀論の界隈の人達は宗教とは距離を置く立場のスピリチュアリティに関心を持っている事が多い。SBNRとはちょっと違うけれど純粋な精神性を追求している姿勢はとても素晴らしいのでその点に関してだけは尊敬している。
反社会的とは言わないまでも非社会的なコミュニティに関心を持っている人達も多くいる印象である。中には、持続可能な開発目標の観点から見て非常に評価できるような思想を実践している人もいる。政治的立場に関しては人それぞれであるけど、少なくとも腐敗はしてないというか、自発的に堕落するような傾向は見られないようだ。自然科学の立場から見ても非常に進んだ実践を実地に行っているコミュニティも多い印象である。
四、陰謀論者の目的は何か
一般的な事実として、政治参加を志すような人達は公的な問題意識を持っているだけでなく自分の身近な人間関係や環境上の問題に関して何らかの困難を抱えている事が多い。今までは社会のシステムに大人しく従っていた人達が大半なのだから突然反旗を翻す理由は冷静に考えれば無いので、自分が抱える問題を背負いきれなくなって外の世界に対して投影してしまっているのだろう。その証拠に、こういった人達は全然まとまらないし内輪揉めばかりしているし、上手くいきそうになると突然態度が軟化して降り始める。
乱暴なまとめ方である事は自分でも認識しているものの、大体間違ってないというか例外を今まで見た事が無いので割と自信がある。別に陰謀論者がどんな主張をしていても私にとっても宗教関係者一般にとってもどうでもいいんだけれど、信仰の形態として認められる場合は取りこぼしがあったらいけないので完全に無視するわけにもいかないので、適度な距離感を保って観察し続けるスタンスが重要になるんじゃないかというのが個人的な所感になる。
五、宗教経験は知識ではないのでは
要するに、このような誤った陰謀論が広まってしまうのは頭の中で考えるだけで宗教的教養に実際に触れようとしない人達が原因となっている事が多く、経験不足である点が問題の核心であると確信している。私は悪魔も信じているけれどそれ以上に神も信じているし、常識的な倫理観も尊重しているし、法律面もある程度は重視している。
偉そうな事を言える立場ではないのだけれど、この機会にもう一度自分の考えを検証してもらって、思い込みや先入観で突っ走ってしまっていないか内省してもらえればと考える。そして、自分にとって本当に大事な物が何なのか再検証してもらえればと思っている。過去を振り返って自分のルーツを探求すれば大抵の事は分かるし、今この瞬間を全力で生きていれば必ず良きに計らわれるはずなので、楽観的になっていいと思う。