鉛筆は齧ると美味い

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翌日、殺した者から持ち物を剥ぎ取ろうとやって来たペリシテ人は、サウルと三人の息子がギルボア山で倒れているのを見つけた。彼らはサウルの首を切り落とし、武具を剥ぎ取った。そしてペリシテ人の地一帯に使者を送り、偶像の神殿と民に戦勝を伝えた。サウルの武具はアシュトレトの神殿に納められ、その遺体はベト・シャンの城壁につるされた。

サムエル記上31.8ー10

さて、今日も今日とて暇なので、今日もブログの記事を書く事にした。

自然が分からない

私は勉強が苦手で全然理数系の学問が分からなかった。文系の科目も全然駄目だけれど、どちらかというと触れた事が無いので苦手かどうかすら分かってない。特に数学のように定量的に結論を出すような分野はもう本当にチンプンカンプンで、何で正しい答えが1通りに定まるのか今でも全く分からない。更に、国語の問題でも答えがある程度は収束するのがよく分かってない。

こうした疑問に突き当たるのは、やはり現代科学の核である自然科学が扱う自然界について、その本質を全く捉えられていないという問題があるのだと思う。字句通りに受け取れば「自ずから然り」=「当たり前」という事なんだろう。本当に意味が分からない。

数学と哲学の違いが分からない

現代科学が数あるパラダイムの中で事実上の標準理論体系として覇権を握っているのは、主に数学に基礎付けられた自然界の理解が正確な事による。即ち、自然界の在り方を正確に理解する事で、数学を用いて一律かつ一定の介入が可能となる。このような奇跡は他の理論では有り得ない。

文系の学問は一応は哲学に基礎付けられていると理解する事が一般的だと考えていて、文系の人達が哲学を深く勉強しているかどうかはよく把握していないが、本当に様々な考え方があって目から鱗と言える。サイエンスが前提とする経験論と論理実証主義の組み合わせのような世界観は、哲学が専門の人達にとっては自明ではないだろう。

一方で、数学は数値や未知数を使用するのだけれど、特に高等教育以降では殆どの問題が証明問題になる。証明を上手く成功させる為には自然言語を正確に使って問題の切り分けを行い、適切な場所で適切な計算を行う必要がある。そういう意味で、数学者は特殊な哲学者であるとも言える気がする。

人間原理の一歩先に何があるのか

話は変わるのだけれど、宇宙論を勉強した事のある人は人間原理という言葉を聞いた事があると思う。人間原理とは「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ない」という前提で、人類の存在に適した条件となるような物理定数に宇宙が設定されているのだろうと考える事らしい。

この考え方は、例えば神や高度な知性体やあるいは人類自身が宇宙を創造しているという話とは全く違う自然科学的な見方になる。地動説から天動説に逆戻りするような印象もあるものの、両者の明確な違いはやはり数学による明確な裏付けがあるかどうかで、数学的に正しいのならば「人動説」とでも言える新しい捉え方になるのかもしれない。

自然界が先か自然科学が先か

正直なところ、私は客観的実在としての自然界の存在を真正面から疑っている。少なくとも、自律的に機械のように動いているわけではなく、人類の科学的発見との一定の相互作用があるような印象を持たざるを得ない。というより、主観的か客観的かの違いは単に様々な可能性があるか一通りに答えが決まるかの違いだと考えていて、人間が直接的に介入する事が容易かどうかの問題じゃない気がしている。

言い換えれば、数学の発明によって自然界が誕生した可能性があるという極論に辿り着いてしまった。数学が誕生する以前は現在のような堅固(ソリッド)な自然は存在せず、ある程度は在り方に幅があったという見方となる。こうした前提の下では、例えば聖書時代にパンが増えたり人が生き返ったりしていてもおかしくはない。

教育の成果は一種のタイプ論だと考えたい

という感じで、反科学ではないものの何とも言い難い微妙な世界観を持っている私ではあるのだけれど、このような科学技術の解釈においては、教育歴や研究歴のような学問的成果は本人の資質と努力を示すステータスであるというよりは、ただ単に人類という共同体の中で自分がどのような役割を果たすかを形式的に宣言する事になるのではないかと感じた。

最近の熱心な教育者の中には、サステナビリティやダイバーシティなどの美辞麗句を並べ立てながらもエリート(自分達)と非エリート(赤の他人)を心の中で明確に区別して住む世界が違うと考えている人達もいると思う。確かに高度な教養を修めていれば教育を受けていない人は未熟に映るのかもしれない。

一般論としては、学習の本質は競争社会において他者から自己を差別化する為の権威を持つ唯一無二の信頼できる報酬体系ではなく、自分の技能でできる事の範囲が広がったり新しい物の見方が身に付いて世界が広がったりする過程で情操が培われる経験を通して、結果として人類の福祉の為に粉骨砕身しようという意志が自然に発露する事ではないだろうか。

日本人を甘く見てはいけない可能性

そういえば、私はMOOCでリカレント教育を一気通貫で幼少期から高等教育まで行ったのだけれど、結果として日本と国際社会(具体的には米国と印度)の教育格差を実感した。日本では学歴を取る為に相当な努力と服従が必要である一方で得られる見返りは少なく到達度も保証されない。優秀で勤勉であるにも関わらず報われない人も増えているわけで、同じ物差しで見れば小学生レベルの思考力しか持たない国際人に修士レベルの思考力を持つ日本人が一方的にボコられるようなポンコツ展開になるのは本当に悲しい。

私は日本で優秀な知能偏差や学業成績を修めた者を中心として日本文化を継承発展させていくべきだと決意を新たにし、同時に日本教育を再生し国際社会と同等レベルの土俵で戦えるようなものに日本のエリート自身の手で一新すべきだと考えるようになった。内政については彼らに完全に任せたうえで、偶然の一致で国際教育を受ける羽目になった自分のような人材を中心として外交・軍事といった国際的な対応を行うべきだと考えるようになった。

太平洋戦争での敗戦から続く米国の3S政策が思ったより良い意味に働いて芸能大国になってしまったので楽して遊べる展望が期待できるというか、半分は既に実現してしまっているわけだけれど、武士道的精神というか大和魂のようなものは今でも残っていたりするんだろうか。今まで論理的に間違った判断をしたと思った事は一度も無いのだけれど、論理を超えた情緒のような何らかの見落としがあるんだろうか。

やはり自然が分からない

よく考えたら、米国などと日本で学問の習熟度に差があるといっても決められた問題を解く能力に埋められない程の大差があるわけではない。どちらかというとこれもタイプ論の話なのかもしれないと思った。日本人は自然科学を素朴に信じているので実際の行動は別として少なくとも認識としては客観的事実を発見する事が学者の仕事だと考えていると思う。そういう前提なので実務的に重要な学識の正誤が掛かったりすると、気骨のある学者は自分が間違っていたら責任を取って切腹するとか引き返せないので玉砕するとかの覚悟を持ったり実行したりする。

確かに自然は自ずから然りとも書かれるくらいで人力では直接操作できず、例えば自然現象を操作するような事はできないと考えられているわけで、自然法則と矛盾する現象を起こせるとも考えられていないわけで、その法則は定常的に決まっていて機械のように規律正しく機能していると考えられていて、数学や物理の勉強をすればする程その感覚が当たり前になっていって他の可能性は全く考えられなくなるし、私もその感覚自体を否定しようとは思わない。日本の教育で良い成績を残した優等生は全く馴染みのない虎の穴の欧米に飛ばされて「学問という名の看板がついた政治」にひたすら従事させられる事になり、サイコロ扱いである。

単純に日本と米国の対比で考えるより非エリート教育とエリート教育のタイプの差かもしれない部分もあるが、こうした感覚は日本的な物だと考えられるというか、教育の成果であると私は考えている。米国的でエリート的な教育になると、自然は最初から操作の対象でその時点での理論的に可能であるかどうかとは関係無く必要に応じて自分達にとって都合の良い科学的発見を行って何もかもを制御する事が当たり前であり、そういった横暴な自由を実現する為の高い技能を保っている人材が大勢いる。唯一の正しい科学的正解があってそれを外したら敗北で即死ではなく、自分達でどんな境地でも切り開いて塗り替えていけば良いと楽観的に捉えている。

このような感覚は米国的なエリート義務教育で培われるものかもしれないので全く共感できないものかもしれないが、どんな理論体系でも自然科学教育という大きな枠組みでも一番上と一番下の頂点には風穴が空いているものだ。最強クラスの教育エリートになると自分の目的に沿って希望する発見を自由に行える境地があって、客観的事実に振り回される事は全く無く専ら自分の内面との戦いだけが人生の課題となる。一方で底辺に近いと逆にあらゆる理論を知っていてもどんな応用も必ず失敗するという面白い現象が起こる。私も学習途上なので完全に理解できているわけではないが、超能力のような特殊な技能を身に付ける前に科学の枠組みであらゆる人為的操作を実現できるようになっておく事がその人自身の幸福の為には限りなく欠かせないと考えている。

ミカエルとラファエル

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