「彼らは戦利品を見つけて
士師記5.30
分配しているのではないでしょうか。
女は、男一人につき二人。
染めた織物の戦利品は、シセラに。
染めた刺繍織の戦利品、彩り豊かな織物二枚は
戦利品の女の首に。」
さて、特に何も書く事は無いが、時間ができたので何か書こうと思う。
事実確認を行うかどうか
完全な情報を集める事が難しいのは確かにあって、私もそんなに真面目に裏を取る方ではないんだが、それは特に関心が無い事が基本だからで、その情報を根拠に何らかの行動を起こすという事になれば一応は本当にどんな事があったのか確認しようとはする。
当たり前の事のようで事実確認は実際にはあまり行われない。周りのうわさ話に何となく浮かされて見切り発車を行い、その先がどうなっていようとも最後まで止まる事が無い。そういう人が多いわけで人間というよりは馬に近い生態を持っていると言えるだろう。
是々非々で考えるかどうか
馬のような人達は、目の前に人参がぶら下げられているかのように熱心に爆走し続ける。彼らは目の前に人参がぶら下げられる前の事を思い出さず、その人参を食べる方法が無い事にも気付かない。一度なにかを目の前に出されると取り下げられた時に損をしたような気分になるが、それは取らぬ狸の皮算用だと言える。
また、この人達は因果関係について考えようとしない。迷信のような信念や考えに常に取り憑かれおり、例えば、私がこういう文章を書いていると何かの呪いが掛かっていて自分に不幸が降りかかるかもしれないので何とかしないといけないと考えたりする。そういう考え方に陥るのは馬鹿というか、精神病だろう。
面白いセンスかどうか
これは私の主観だが、馬系の人達はほぼほぼつまらない。元々の資質に恵まれている人達が競争で最後まで生き残るのでそういったレースに出てくる才能ある人達の資質自体は見応えがあるものの、その過程はあまり面白いものではない。ひたすら真っ直ぐ熱心に爆走し続けるだけで何の捻りもない。
こういう人達は固定観念というか常識に囚われていて、しかも自分が守れる常識に限って囚われていて、他の都合の悪い慣習は無視する。一種の身勝手だが特に自覚も持たない。何の障害物も無いのに障害物競走のような様相を呈していて、それでも皆同じように動くので面白みはない。
忍耐という美徳を身に着けたい
今回は特に愚痴のようになってしまったが、私は試行錯誤で何でも突破しようとしてしまう癖があるので、またそれが上手くいかない事も多いので、耐え忍ぶ事で困難を乗り越える方法も身に着けたいと思っていて、それが日本人の美徳の一種だと思っている。
悪い点ばかりに目を向けずに良い点に目を向けないといけないとは思っているし、自分自身に落ち度がある事も少なくないと思っている。したがって、私は誰も見ていないこのブログに自分の考えの封印を続ける。いつかは真人間のように生きてみたい。
学歴はオンリーワンのエリクサー
さて、話は変わるが、学歴によって主体の全ての権能が設定として決まるのに保護者や先公で優秀な人達の中には、積極的に刻苦勉励する事を奨励しない場合があると既に書いた。実は現実はもっとシビアというか理不尽で、そういった先人の助けがどの程度の有効性を持つかにもその主体のその時点での学歴が効いてきてしまう。
例えを挙げると、学歴は磁荷のようなものでより高い到達度を達成した人達が誰かを助けようとして物凄い磁力のうねりを生み出したとする。その場合、ターゲットとなっているクライアントだけでなく同じ環境にいる周辺の人物や、極端な場合は全人類に影響が及ぶ事になる。ターゲットが得意な分野に的を絞ったアプローチを行わない限り、差が更に開く事になって本末転倒になる。
学習成果の帰属の曖昧問題について
私がこの事に関して考えを巡らす時に常に疑問を持つのは、どこまでが本人の努力による成果と見做され、どこまでが他人の手による支援と見做されるかだった。どんな優秀な人でも完全に独力で教師や同級生などの助けを借りずに全て達成する事は難しいし、極端な話だと書籍を参照とする場合でも自分で考える過程を省略しているし、AIのような集合知や計算機を使う事も一種の省略として見做しうる。
結論から言うと、意識・無意識と伝導・絶縁のような2つの軸で4つの場合に分けられるのではないかという仮説に至った。何らかの科目について自分一人で努力して他人の手を借りずに全ての学習成果を得た場合、意識か無意識では意識に分類され、伝導か絶縁では伝導に分類される。自分一人で努力したが参考書や計算機に頼った場合、意識ではあるが絶縁である部分がある扱いになる。他人の助けを借りて言われた通りに正解を導いた場合だと、無意識で伝導、他人の助けを借りて学習補助を用いた場合だと無意識で絶縁、といった感じだ。
教養を手にする方法は果たしてあるか
それで、何が言いたいのかというと、ターゲットのクライアントが自主的に学習を始めるのを粘り強く待ち続けるだけのアプローチは勿体無い可能性があるという事だった。この世界の学歴制度の基準だと、結果的に達成したかどうかだけが問題となってその為のプロセスは評価されないので、形から入るのは当然ある話だと思う。
その前提の上で、上記のような学歴の四象限を考えて、自分の強みにできるような分野は「意識・伝導」を目指し、そうでない分野は適宜「建設的なズル」を行って他の象限に分類されるような方法でクライアントの学歴に下駄を履かせるのが良いだろう。このような四象限の区別によってどんな違いがあるのかと言えば、特に差が無いのかもしれないが一応自分なりに考えてみた結果として、質的な違いはあるのだという結論になっている。
ガブリエル